乙宝寺は真言宗智山派に属する松林の霊場です。
松韻が寺域を洗い、東から上る朝日、西に沈む陽輝く開基千二百年の古刹です。
当山は天平八年(七三六年)聖武天皇の勅願を受けて行基菩薩、婆羅門僧正の二人の高僧によって開山されました。七堂伽藍の中心、金堂には胎蔵界大日如来、阿弥陀如来、薬師如来の三尊が当山の本尊としておまつりされています。
婆羅門僧正は名を菩提僊那(ぼだいせんな)と言って印度より渡来した高僧で、その際に釈尊の両眼の舎利を請来されました。右眼のお舎利は日本へ渡来する前に中国へ渡りお寺を建ててそれを納め供養しました。そして日本へ渡来し、聖武天皇の勅願を受けて建てたお寺に左眼の舎利を納めて供養をしました。
釈尊の両眼の舎利を二ヵ寺、甲と乙に分けて御供養したことから彼の国のお寺は「甲寺」、此の国のお寺は「乙寺」と名付けられました。その乙寺が現在の乙宝寺であります。
開創から少し時代が下り、当山の左眼舎利供養のため後白河院より舎利を奉安する金の宝塔を賜り、併せて「宝」の一文字を与えられ爾来乙宝寺と名前を変えて現在に至っています。
聖武天皇は仏教による鎮護国家の理念に基づき、全国に国分寺・国分尼寺を建立されました。そして同じく勅願を奉じて北陸一帯の安穏を願って建立されたのが乙宝寺であります。その開創に携わった婆羅門僧正は釈尊左眼舎利を奉安し、行基菩薩は自ら三体の御仏を刻み本尊とされました。
これは乙宝寺第二番の巡礼歌ですが、右眼が唐土(中国)に左眼が本朝の当寺に納められたという縁由をうたっております。
“ 唐土の人もたづねし乙寺
今に絶えせぬ法のともしび ”
また、当寺の歴史をしるした貴重な文献に乙宝寺縁起絵巻があります。
上部にある画像は江戸末期に谷文晁一門が総力を挙げて模写したもので、米沢藩主上杉鷹山公によって寄進されました。主なテーマは仏舎利が納められた寺ということです。
この左眼舎利は、一時は御所へ移されたり、或いは上杉謙信公が分粒を勧請したと伝えられており、まさに諸人垂涎の重宝でありました。
一方では、行基菩薩が刻んだ大日如来を当山の中心本尊としたため、乙宝寺は「きのとの大日様」とも呼ばれました。
そして、当山にお詣りすることを「きのと詣り」と呼びならわし、上方詣りや善光寺詣りをすると必ずきのと詣りをしました。
これは最後に御礼詣りとしてきのと詣りをしなければ、御利益がないと言われたからです。
きのと詣りは各地の民謡、田植歌、盆踊歌に歌われ、「一にきのとの大日様よ…」という文句で始まっています。
乙宝寺は越後の人にとって、地元を守るお寺として信仰されています。
また、当山には様々な伝説も伝わっています。
その一つに「写経猿伝説」があり、『今昔物語』にも乙寺の名前が見えています。この伝説があることから乙宝寺は猿供養寺とも言われています。
時代は移ろい、檀家を殆ど持たない為に往古と比べて寺勢は衰えましたが、先人たちが守ってきた静謐で落着きのある境内には現在も祈祷の太鼓の音が響き渡っています。
こうして祈祷寺院としての伝統は今も揺るぎなく引き継がれ、宗派を問わず、時と所を問わず、多くの人が心願成就の為にお詣りにやってくるお寺となっています。